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越前出身といわれる第26代天皇。越前平野の治水と笏谷石採掘で知られ、洪水が治まるよう足羽山から海に向かって矢を放つと、越前平野を覆っていた水が海の方に引いていったという伝説が残っている。 石像は明治17年に笏谷石の石工によって、天皇の遺徳をたたえるために造られたもの。
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継体天皇と坐摩神五柱を祀る越前最古の歴史を有する神社。境内の樹齢360年以上のシダレザクラと参道のタカオモミジは市の天然記念物。
鎌倉・南北朝時代の名将新田義貞とその一族を祀る神社。神宝として保存されている、義貞が着用されていたと言われる兜「鉄製銀像篏冑(ぎんぞうがんかぶと)」や、義貞とともに戦った結城宗広の書状等は、国重要文化財に指定されている。
九頭竜川の守護神として創建。日本古来の東西南北を守護する四大明神の一つとされる。強い力で邪気を払い、ネガティブな気持ちを取り去るパワースポットとして人気である。
養老元年(717)泰澄大師と吉田承珎の創立で五社明神を勧請したのが始まり。大正9年(1920)に山奥区内の4社を合祀して山奥神社と改称した。
正徳元年(1711)福井藩の家老により不動明王が設置されたのが始まり。昭和39年(1964)本堂を現在の造りに改築された。笏谷石の露天掘跡の岩肌を見ることができる。
継体天皇石像下の小池。天正11年(1583)、豊臣秀吉が柴田勝家を攻めたとき、このあたりに本陣を張り北ノ庄の城を見下ろしながら指揮をとったといわれている。
5代藩主昌親とその母高照院の菩提寺。本堂と書院はそれぞれ、福井城本丸御殿の小座敷と大奥御座所ノ間を拝領移築したのもで、福井城に関わる唯一の現存建築。県指定文化財。初秋は萩の名所。
大本山永平寺23世が開山(直末)で開創は元和元年(1615)代々福井藩の家老を務めた狛家の菩提寺。狛家の墓は大きな笏谷石製の五輪塔で、本堂左手奥の山肌を上ったところにある。また、少し北に位置する飛地にも墓所があり、同じく笏谷石製の宝篋印塔五基が並んでいる。
足羽川の幸橋南詰上流側にある広場。由利公正の像や坂本龍馬との交流を書いた説明板などがあり、銅像の目線は、公正の恩師である横井小楠の寄留宅跡(幸橋北詰下流側)の方向を向いている。幸橋南詰下流側には由利公正居宅跡の石碑がある。
笏谷石の階段が145段、全長165m続く。江戸時代までは愛宕大権現社への参道として知られ、歴史ある料亭や茶屋が立ち並び栄えた場所であった。
柴田勝家、丹羽氏の後の北ノ庄城主堀 秀政ゆかりの寺で、自画像も伝えられて いる。大きな山門を入ると、境内には解 説石碑があり、その横には市の天然記 念物に指定されている樹齢400年を超 えるといわれるイチョウの巨木がある。
江戸時代後期の弘化3年(1846)に、福井藩医山本瑞庵が別荘として建てた草庵。舟遊を兼ねて藩主松平春嶽をはじめ、横井小楠、橋本左内、中根雪江などがここを訪れ、密議を凝らした。なお、現在は料亭となっていて、歴史を感じながら食事を楽しめる。
幕末の福井藩士鈴木主税(ちから)は、藩主松平春嶽公の側向頭取を務めた後、寺社奉行、町奉行として善政を敷いたことから、木田の町人が本神社を創始した。
夫柴田勝家公と北庄城で自害したお市の方の23回忌相当年に、その院号「自性院」を賜るとともに現在の地に移され、以後お市の方の菩提寺となっている。
橋本左内の墓と像がある。橋本左内は、幕末の福井藩士。藩主松平春嶽の右腕として、将軍継嗣問題、外交問題について開国派として奔走。しかし、安政の大獄により捕らえられ、26才の若さで斬首された。
北庄城主柴田勝家の菩提寺。境内には勝家、その妻「お市の方」をはじめ一族の墓があり、また、寺宝の馬印・念持仏・刀など勝家の遺品などがある。
文明5年(1473)に、一乗谷初代当主朝倉孝景(英林)が一乗谷に建立し、永禄10年(1567)室町幕府15代将軍足利義昭の御所となった。朝倉氏滅亡後、天正2年(1574)に柴田勝家によって現在の場所に再建された。国重要文化財の「阿弥陀三尊二十五菩薩来迎図」を所蔵。また広大な墓地には市の天然記念物に指定されている樹高15メートルのラカン樹がある。
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